傘のピロピロ

今日のブログは私が所属するサークルの先輩によるものである。

(執筆ありがとうございます!!)

 

例えばカメラは、写真や動画を撮影するために世界に存在している。例えば道端の石ころは、何のために存在しているわけでもない。ただ我々はそれが道端に転がっていることを気にもかけず通り過ぎていくばかりである。だが傘のピロピロはどうだろうか。なぜ傘にはピロピロがついているのか。端的に言って謎である。雨が降っている時、我々は傘をさす。傘というものは自分が、すなわち自分の身体や髪の毛、あるいは衣服や身につけているバッグ等が濡れないようにするためのものである。そんな時ふと顔を上げれば、人々の傘からはそれと同じ数だけのピロピロが垂れていて、人々の歩調に合わせ、誰のまなざしを意識するわけでもなく静かにその身を揺らしている。あまりにも異様な光景である。あれは何だ。

たしかに人間の腕についても同じようなことが言えるかもしれない。人々が両腕を互い違いに動かしながら歩いている様子は、腕を動かさずに歩行できる、あるいは歩行とは別の仕方で移動することができる宇宙人から見たらなんとも馬鹿げたものとして眼に映る、あるいは眼とは別の仕方で外部の対象を捉えることのできる感覚器官によって知覚されるだろう。だが、我々人間は、自ら両腕を揺らしながら歩かざるをえない存在として、それは歩行中の身体のバランスを取るための動作なのだということを知っている。もし街中を歩いている人間たちがどうしようもなく滑稽に見えてしまう瞬間があったとしても、その知識はもはや脅迫的な仕方でもって、我々の眼からそのような世界を覆い隠すだろう。

だが傘のピロピロはどうか。どんな理由で存在しているのか。何を目的として、雨を避けるためにドーム状の天板を持ち、使用者が持つためにそれにふさわしい長さの棒と緩やかな鉤状の先端を持つあの傘という名の合理性を極めた道具に付属しているのだろうか。一切不明である。昔の名残だろうか。傘という道具はわずかにその形態を変えながらおそらく何世紀も前からこの世界に存在していて、その中のある時期においてピロピロが、例えば相合い傘をしている時のつり革的な役割のために付け加えられた可能性は否定できない。現在ではそのような仕方でピロピロを用いる人間がほとんど見られないことを踏まえても、ある種の道具にとって過去においては明確であった役割を失ったまま存在し続けることはさほど不思議なことではない。

だが、その役割があまりにも鮮烈であったがために、流動する生を隠蔽していたような場合は別である。上空を漂う可視的な幻想の中で生まれた微小な水滴は、涙の輪郭で象られた小さなしずくを成して、空気抵抗によって数多に分裂しながらも地表付近まで落下し、それをさす必要性を感じるほどの降雨を視覚的あるいは触覚的に感知したひとりの人間によってさされた傘の表面に激突する。そのしずくは、傘の頂点から放射状に伸びる骨組みに誘導されるようにしてその表面を滑り落ち、多くは骨組みの先端からより大きなしずくを形成して地上に落下する。これが傘の表面で演じられる動きの内実である。すなわちそれは放射状に拡散する不定形の戯れであり、その光景を裏から、まさにその語が取りうる最も素朴な意味において裏から眺めれば、傘の柄は放射状の骨組みと対をなして偶数個の、あるいは奇数個であるかもしれない先端を地平とする一途な求心性を象徴する。このような相においてもう一度ピロピロに焦点を合わせれば、その非中心的というよりも反中心的な異質が相合い傘という営みにもたらす悲劇は鳥の目をつつくまでもなく明らかであろう。

そうだ、ピロピロは悲劇の存在なのだ。雨が降っているとき、人々が傘をさしているとき、ひっそりと視界の隅で揺れているピロピロは、あるいは人々の後ろで、時には傘の上でその周期的な揺れに身をまかせているピロピロは、誰にも気付かれずひそかに涙を流しているかもしれない。そんな時はせめて、閉じられた傘にピロピロを巻きつけてあげよう。なぜか付いているボタン状の部品を本体のそれにくっつけてもいい。涙にとけて拡散する重心はふたりの身体を包み込み、境界を手放した不定形のしずくたちは、ピロピロの心、あるいは人間における心に該当する何か、しかし確かに存在する何かを満たすであろう。そう、これが幸せだ。これが人生だ。